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                                                                         トルコの観光地

イスタンブル(ISTANBUL)
   
  
トルコ語: İstanbul は、トルコ共和国西部に位置する都市。ボスポラス海峡をはさんでアジア(アナトリア半島)側とヨーロッパ(トラキア地方)側の両方に拡がっており、2大陸にまたがる大都市である。首都アンカラを上回る同国最大の都市であり、文化・経済の中心となっている。イスタンブル県の県都でもある。2000年の人口は約880万人で、イスタンブル県全体では1000万人を越える。モスクワ、ロンドン、ルール地方、パリに並ぶヨーロッパ屈指の人口規模をもち、ヨーロッパでも上位の世界都市と言える。その歴史は長く、かつてのローマ帝国、東ローマ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国の首都が置かれていた。イスタンブール歴史地区は世界遺産に登録されている。北緯41度1分7秒、東経28度57分53秒。日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多いが、この呼称は正確とは言えない(後述)2010年の欧州文化首都になることが決定している。
古代、中世のイスタンブルはそれぞれビュザンティオンコンスタンティノポリスを参照。
現在「旧市街」と呼ばれるマルマラ海と金角湾に囲まれた、ヨーロッパ大陸から突き出した半島の先端に設けられた古代ギリシアの植民都市ビュザンティオンが、イスタンブルの起源である。ローマ帝国末期330年にコンスタンティヌス1世がここに遷都、ビュザンティオンをコンスタンティノポリスと改名した。以来1100年以上に渡り、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都として、1453年のコンスタンティノポリス陥落までキリスト教徒の都であった。
1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブルは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。コンスタンティノープルはイスラムの支配下に入り、聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)をはじめとする多くのキリスト教の教会が強制的に接収されモスクになった。
カッパドキア(KAPPADOKIA)
       
  カッパドキア(ラテン語: Cappadocia)とはトルコの首都アンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。
古代の地理においてCappadocia (「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokya、ギリシア語:Καππαδοκία)は、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウルス山脈から「ユークシン(Euxine、すなわち黒海)」までのすべての地域を支配した。この意味でのカッパドキアは、南ではタウルス山脈と、東ではユーフラテス川と、北はポントス地方(黒海沿岸部)と、西はおよそトゥズ湖と境界を接していた。だが、その境界を正確に定義することは不可能である。その国の多少とも詳細な記録を記したただ一人の古代の著述家ストラボンは、その大きさを非常に誇張したが、現在は長さ約250マイル、幅150マイル以下の範囲だったと考えられている。
熱気球から観たカッパドキアの奇観カッパドキアは、後期青銅器時代にハッティ人として知られ、ハットゥシャに中心を置いたヒッタイト軍の本拠地となった。
ヒッタイト帝国の滅亡の後、紀元前6世紀のクロイソスによる敗北以後のシリア系カッパドキア人(w:en:Moschoi)の衰退によって、カッパドキアは強固な城に住み、農民を奴隷状態においた、一種の封建貴族の軍政に委ねられた。これは後に、彼らをして、外国の奴隷制度に適した者とした。 カッパドキアはダレイオス1世によって設置された区画の中でペルシア王国第3サトラップに含まれた。しかし、誰もその地方全体に対して明確に至上な存在ではなく、大王に対してほぼ完全に従属した地元の支配者たちによる統治が長く続いた。 最後にはサトラップのダタメスによって徹底的に抑えられ、カッパドキアは、一人の統治者アリアラテス(以後、「アリアラテス1世」と呼ばれる)のもとで独立を回復した。彼はアレクサンドロス大王と同時代の人であり、ペルシア王国が滅びた後も、カッパドキアの王位を維持した
   


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  コンヤ(Konya)
                 
コンヤ(Konya)は、トルコの内陸アナトリア地方の主要都市のひとつ。コニヤともカナ表記される。コンヤ県の県都で、1997年の人口は約61万人。
パウロがキリスト教の布教に訪れたことで知られる都市イコニウム(Iconium)の後身で、西欧諸言語における伝統的な表記はConiaあるいはKonia(コニア)である。
フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン(Iconion)と呼ばれた。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。
その後も東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えるが、マラズギルトの戦いの後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリム(イスラム教徒)の侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服された。まもなく、スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイアを奪還された後、コンヤがかわって首都となるが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領された。
13世紀に入ると、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた1237年のカイクバード1世の死後、モンゴル帝国の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が14世紀の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都となる。14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されるがアンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。
この間、1228年には中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メヴラーナ)がカイクバード1世の招請によってコンヤに定住、1273年に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開いた。
 
  アンタルヤ(ANTALYA)
     ファイル:Antalya Hafen.jpg          
メリハリのある素晴らしい景観に囲まれたトルコの主要なリゾート地アンタルヤは、木陰を作り出す椰子の並木道と賞を受けたマリーナのある魅力的な町です。まるで絵画の様な美しいカレイチの古い界隈では、細く曲がりくねった通りと古い木造の家々が、古代都市の城壁に隣接しています。
紀元前159年、彼自身にちなんでその都市をアッタレイアと名付けたペルガモンの王、アッタロスⅡ世によって築かれて以来、アンタルヤには常に人が住み続けてきました。オスマン帝国の支配下に入る前は、ローマ帝国、ビザンチン帝国、セルジュク朝によって次々に占領されてきました。町の中心にあるセルジュクの王アラエッディン・ケイクバッドによって13世紀に建てられたイヴリ―ミナレリ・モスクの気品ある襞飾りのあるミナレット(尖塔)は、アンタルヤのシンボルとなっています。同時代に建てられたカレイチ地区にあるカラタイ・メドレセ(神学校)は、セルジュクの石彫りの傑作と言えるでしょう。この町にある最も重要な2つのオスマン帝国時代のモスクは、目を見張るようなタイル装飾を施した16世紀のムラット・パシャ・モスクと、18世紀のテケリ・メフメット・パシャ・モスクです。
マリーナの隣には、4本の柱を天然の泉に立てその上に切石で建てられた19世紀後半の魅力的なイスケレ・モスクがあります。フドゥルルク・クレスィ(塔)は、2世紀に灯台として建てられたと考えられています。以前は教会であったケスィック・ミナレリ・モスクは、ローマ、ビザンチン、セルジュク、そしてオスマン帝国によって継承される中で改築を重ねてきており、この町の長い歴史を裏付けています。
130年にハドリアヌス帝がアンタルヤのファセリスを訪れた際には、同帝をたたえて、コリント式円柱と美しく装飾された3つのアーチを持つ門が、町の城壁に作られました。それが城壁を通り抜ける唯一の入り口でした。マリーナの近くには、城壁の他の部分だけでなく、この門に隣接する2つの塔が今でも残っています。カレカプス広場にある時計塔もまた、旧市街の要塞の一部です
 
  パムッカレ(PAMUKKALE)
             ファイル:Pamukkale00.JPG    137968 B   

ヒエラポリス-パムッカレはトルコ西部にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰棚の丘陵地帯の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。現在は遺跡が残る。
パムッカレ
パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。昔、弱酸性の雨が台地である炭酸カルシウムの溶液となって地下水となった。それが地熱で温められて湧き出て温泉となり、沈殿した石灰が固まって、あたかも純白の棚田のような景観を作り出している。棚田のようになっているのは、漂流してきた枝などに石灰がたまり、それが長い間を掛けて堤を形成するためであるこのような景観が約200mの高さに渡って形成されている。
ヒエラポリス遺跡
パムッカレの石灰棚の一番上にある遺跡。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるがその後、復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。ローマ劇場、ローマ浴場などが残る
 
  エフェソス(Ephesos)
        ファイル:Ac artemisephesus.jpg     ファイル:Celsiuslibrary-DK.JPG       

エフェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、現在のトルコ西部に位置する小アジアの古代の都市。古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市である。現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。
エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人だったと考えられている。ヒッタイト人の文献に登場するアルザワ王国都市アパサがエフェソスと同一の都市であると多くの者が考えている。発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっている。
古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名であった。エフェソスでは比較的遅くまで王政が敷かれた。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身である。
紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽した。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削ったが、この試みは失敗し、ヘロスタトスという名が伝わっている。アルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられた。
アレキサンドリアの図書館、ベルガモの図書館と並ぶかつての世界三大図書館の一つ、エフェソスのセルシウス図書館の跡地エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和制ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されていった。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものであった。
 
  ペルガモン(BERGAMA)
         ファイル:Pergamon Trajan Temple RB2.jpg           

エペルガモンは、小アジア(アナトリア)(現トルコ)のミュシア地方にある古代都市。スミュルナ(現イズミール)北方のカイコス川河畔にあり、エーゲ海から25キロメートルの位置にある。
ペルガモンは、紀元前3世紀半ばから2世紀にアッタロス朝ペルガモン王国の都として繁栄したヘレニズム時代の都市である。その外港はエライアとエフェソスであった。ローマが紀元前129年に小アジアの西南部に属州アシアを設けたあと、ペルガモンは、エフェソスとともに、この属州の中心都市となり、繁栄を続けた。
ペルガモンのアクロポリス遺跡は標高335メートルの丘の上にあり、一群の建造物で構成されていて、上市と呼ばれている。その下方には、中市と下市が広がっている。上市には、宮殿、トラヤヌス神殿(ローマ時代のもの)、アテネ神殿、劇場、ゼウスの大祭壇、アゴラ、図書館、武器庫の遺跡があり、ヘレニズム文化が栄える往時のペルガモンを偲ばせるものがある。上市の遺跡の一つ、ゼウスの大祭壇は、遺されていた壁面彫刻などを使って、ベルリンのペルガモン博物館の内部に復原・展示されており、往時の雄姿を再現している。
アッタロス朝ペルガモン王国 [編集]
アッタロス朝ペルガモン王国は、ヘレニズム王国の一つで、アレクサンドロス大王の遺将リュシマコスの財宝を管理していたフィレタイロスの背信行為から生まれた。紀元前2世紀半ばすぎ、アッタロス1世が建国し、繁栄を極めた。紀元前133年、アッタロス3世が、領内のギリシアの独立ポリスを除き、ペルガモンの領土をローマに遺贈したことによって、この王国は消滅した。   ペルガモンの文化の発展の度合いは、図書館が一時アレクサンドリアの図書館に次ぐ規模に達していたことに象徴されている。蔵書の作成に使われたパピルスは、品不足の影響もあって、エジプトのプトレマイオス王朝から輸出を停止されたほどであった。そのため、パピルスの代替するものとして、同国で羊皮紙が生産されるようになった。羊皮紙を表す言葉の語源はペルガモンに由来する(例・英語のparchment)。
 
  トロイ(TROIA)
                     

イリオス(古代ギリシア語イオニア方言形:Ἴλιος, Īlios イーリオス)は、ギリシア神話に登場する都市。イリオン(イオニア方言形:Ἴλιον, Īliov イーリオン)、トロイア(アッティカ方言形:Τροία, Troia トロイア、イオニア方言形:Τροίη, Troiē トロイエー、ドーリス方言形:Τρωία, Trōia トローイア)、トロイ(英語:Troy)、トロヤ(古典ラテン語:Troja トロイヤ)などとも呼ばれる。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南にあったとされる。
一般的に、ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家であるが、現在発掘によって確認される遺跡は城塞以上のものではない。ギリシア神話においては、アガメムノンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましは『イーリアス』をはじめとする叙事詩環に描かれている。
近畿日本ツーリストの海外ツアー【ホリデイ】へようこそ!ここは世界遺産のコーナーで、トルコ 世界遺産のトロイ遺跡を訪れる旅行を紹介しています。
古代エーゲ文明のひとつトロイ遺跡は、1998年に世界遺産に登録。ドイツ人の実業家シュリーマンによって発掘された遺跡です。古代ギリシアの詩人ホメロスの長編叙事詩『イリアス』に描かれているトロイ戦争の「トロイ」ではないかと云われているものも、未だ証明はされていません。発見当時の発掘状況が悪かったため、9期に分けられるというトロイの歴史を完全に辿ることは困難です。それでも数々の遺跡に伝説のトロイの木馬を復元した巨大木馬などもあり、歴史のロマンを十分に感じることができます。